6/27/2010

Words

 本職は鍼灸師だが、本業が翻訳であるから、今回翻訳者の立場から発言する。 世界中のどの分野でも同じだが、その分野の達人にしか通じない用語がある。その用語を部外者に理解してもらう必要も時々発生する。例えば患者にムンテラ(日本人が作ったドイツ語!)の際病状を解説する時。しかし、使われている言葉に関して双方が類似の意味合いで理解しない限り会話(話が会うこと)が成り立たない。コミュニケーションを取ろうとしている人の自然条件(年齢、教育、社会的背景など)の相異が大きければ大きいほど通話(話が通る)は困難になる。
 自然な違いに加えて人間は独自の相異も作り上げる:最近何でも「科学的根拠」が必要だが、その根拠を見出すために、測定しようとする項目を定義し、測定を可能にする環境も整える。妨げる物は出来る限り除外する。これはframe of referenceと言い、カメラのファインダーと同様見えるものを限定する。
 だが、最初から見る(理解する)ものを限定する上、私のよう他文化圏の人間も居れば以心伝心の世界は夢の彼方まで遠ざかる。アジアに於いて東西の医学では同一漢字を使うが、それぞれの分野で概念が丸きり異なる。患者の心臓が悪いと説明しなければならない時(例えば、broken heart=失恋のための心気虚)、東西の概念を分けて理解してもらうのも一苦労だ。その患者が外国人であれば尚更に困難が増してしまう。
 日本に於いて1500年にも及ぶ東洋医学歴史中に生み出された発想が決して少なくないが、世界に殆ど知られていない。それは表現の曖昧さと「手書きあれども文書きなし」で表される文章力の貧弱さによるかもしれない(私は言える立場ではない!)。日本は東洋医学に関して世界に向けて大事な情報発信地であるべきだと思うから、情報を伝達する「言葉」をもう一度考え直す時期が迫って来たかもしれない。

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